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ほんとうのことー「佐藤泰志の文学」 福間健二さん講演会

きょうは函館市文学館主催の講演会「佐藤泰志の文学」へ行ってきました。

講師は、佐藤泰志の親友で、佐藤の死後も著作の解説や講演等で彼と彼の文学について伝えてきた福間健二さん。

とてもいい講演でした。

友人とか傍にいたというだけでない観察と考察、時代と時間への目配り、それらを都合よくきれいにまとめようとしない真摯さが感じられました。

印象的だったことを記しておきます。

最初に福間さんは、佐藤泰志は「ほんとうのこと」を書こうとした作家だったと言われました。このことは、あとからの話にも結び付くもっとも肝心なことだと思います。

団塊の世代と呼ばれるご自身や泰志の世代の特徴―アメリカの文化を享受しつつも、かの国が世界での支配を強めようとすることへの抗議、という二律背反的な想い。

また、社会の担い手として労働力と発案者でもあること。戦後世代のなかでも特別に日本のその世代がもっている屈折と恩恵。

そうしたものを抱えている早熟な感性が「青春の記憶」(高校2年)「市街戦のジャズメン」(高校3年)という作品の表現を作っていった。

そして、30歳前後で数十年後も読まれる文章を書いていたということのすごさ。

いまになってみると、80年代に見失っていたもののことがわかる、2007年から2010年、震災の2011年からずっと佐藤泰志が読まれるということを考えたい。その意味で見えてくるものがあるのか。

それから、福間さんは用意してくださったレジュメから「ニューレフト」という詩を読まれました。泰志が高校時代に書いた詩です。

詩人性ということも話されました。

そして、とても印象的で、わたしには重要だと思われることを言われました。

詩的なもののない小説は浅いし、詩人性というのは小説でも必要ではあるけれど、作家として売れるということと詩人であることの相反。

泰志にとって小説を書くというのは、詩的なもの、詩人的な部分をどうなだめていくのか、ということであったのではないか

同じころ「風の歌を聴け」で作家活動をはじめた村上春樹との相違ということを、「完備」(完美?巻尾?)という語を使って説明。つまり、同じくらいの枚数の作品でも、村上春樹は小説としてカンビしているけれど、泰志の作品はカンビしないという感じがあるという。それを詩人性との関連でも言われていたと思います。

わたしは、その「カンビしない」ということが、彼の人生においても言える気がして胸を衝かれました。

カンビしない、というのは量や長さの問題ではないのかもしれない。そして、カンビしないことが必ずしも悪いとは福間さんも思っていないようでした。

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福間さんの書くもの、話すことで感心するのは、その率直さ。

泰志の作品についての論評も固定化しない。前に言ってたことと今感じていることが違えば、悪びれることなく言う(たとえば、「海炭市叙景」が冬・春の18篇で終わっていることについて以前は、いいんだ書かれたものを組みかえることで書かれる予定だった夏・秋の物語を読者は自由に読むこともできる、というようなことを書いていたと思いますが、きょうは「やっぱり残りの18篇が読みたかった」と仰っていた)ところに、正直さがあると思うのです。

それは泰志の「ほんとうのことを書きたい」というのと同じだと感じます。

そう、詩人。そして、泰志も。

泰志の作品に「カンビしない」と感じるのもそのせいなのかもしれません。

小説的虚構で読者を満足させきれない?

うまく騙せない?

(芥川賞を獲れなかったのも、「カンビしない」せいでしょうか)

しかし。それは不足なのか?

だいたい詩を書くということ、詩という表現を採ることが「ほんとうに至りつきたい」からではないのか。

そしてまた、石原吉郎の言う、詩は〈「沈黙するための」ことば〉、〈「書くまい」とする衝動〉もよぎります。

その、「ほんとうに至りつきたい」と〈失語の一歩手前でふみとどまろうとする意志(石原吉郎)〉という詩の持つアンビヴァレンス。福間さんの言われた「泰志にとって小説を書くということは、詩的なもの、詩人的な部分をどう宥めていくのかということだったのではないか」は、「佐藤泰志の文学」を考えるときの大きなヒントになると思います。

泰志の小説がいま読まれているということ、美食や華美な服装が流行った80年代に書かれた小説が21世紀の今日、読者を増やし続けているということには、泰志の作品を埋もれさせたくないと活動してきた人たちが思っていた以上の重要な意味があるのかもしれません。

 

きょうの講演会にはゲストとして佐藤泰志夫人の佐藤喜美子さんもいらしてました。

泰志が自死したことで、それまでいろいろあったから家族はのびのび生活できた、反面のこされた家族としてのつらい気持ちも、と吐露されて、おもわず目がうるみました。

90歳になるお母様(泰志にとっては義母)が、福間さんが泰志の全作品について評する「佐藤泰志 そこに彼はいた」(河出書房新社)を面白いと言って読んでいるという話を聞いて、ああ良かったなあ、と心底思いました。

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