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たまに間違う

いいお天気です。

雨も風も収まりました。

ゆうべはゆっくりお風呂に入って、よく眠れました。

北海道新聞文学賞「選評」のショックから、いろんな感情が噴出しましたが、今はとても平静です。

私が経験したのは地方紙の文学賞(だからこその面倒や葛藤もあるけれど)ですが、佐藤泰志は、これ以上の想いを何度も(芥川賞候補5回、三島賞1回)したんだなぁとあらためて感じました。

ドキュメンタリー映画「書くことの重さ」の中に報せを待つ泰志、落選後の泰志の映像がありました。あの微笑をつくりながら、胸の中は悔しさと怒りでいっぱいだったのだろうな、と思い返されます。

泰志の時代には、それをぶちまけるツイッターやブログもなかったけれど、今はあります。

この一日のあいだに思ったことなど、忘れないうち(笑)に急いで記しておくことにします。

 

◆「独りよがりの感があった」(小説家・久間十義氏)については、そう感じられたんだろうなと、素直に(笑)受け取り、これからは気をつけます。

◆「単なるファンの思いつきのような論旨で批評になっていなかった」(文芸評論家・川村湊氏)について

この「単なるファンの思いつきのような」には、ひっかかります。

私は2010年に『陸繋砂州(トンボロ)』というタイトルの詩集を出しました。

この生まれ育った函館の地形が、私と人生に大いなる影響を与えていると思っています。

山に見守られ、山に向かって通学していた佐藤泰志もまたそうであることは、その『海炭市叙景』に顕れていると思い「地形と故郷」から書きだしました。

「単なるファン」という言い方、気づきや発見を「思いつき」、ちょっと悪意すら感じるのです。

 

◆評論家は川村氏に限らず、自身の矜持もあるのでしょうが、評論に対して要求するものが厳格な感じがします。ときに尊大なまでに。そのことが、評論の書き手も読者も限定してしまうのではないでしょうか。

小説を書く人はたくさんいます。読む人はもっといます。だったら、読んで感じたり考えたりしたことを書きたい人も潜在的にはかなりいるのではないでしょうか。でも、書いても「こんなのは批評じゃない」「評論になっていない」と評されそうで腰がひけるのではないでしょうか。

現に今回の道新文学賞の創作・評論部門(100)の応募内訳は創作92点評論8点と、評論は1割にも満たないのです。

 

◆私が散文中心の個人誌『恒河沙』を創刊したのは、詩誌に近況のように載せるエッセイで、観た映画や本のことを書いたら「その映画が観たくなった」「番場さんの書く文章が好き」との感想をいただいたからでした。

そのことについて書いた映画や本に興味をもってもらえるというのは、とてもうれしいことでした。

そこに今回の「砂州をこえて -佐藤泰志『海炭市叙景』論」を書きました。

読んでくださった方は、みなさん「一気に読みました」と返信くださいました。うれしかったです。

以前の同文学賞で加藤幸子氏が候補作の評論を、難しい語ばかりで分からない読み通すのを途中で止めた、という主旨の選評を書かれていたことがありました。読んでもらえなかった候補作が気の毒(候補にあげておいて)なのと、率直すぎる氏の態度が強烈で忘れられませんでした。

だから、けっこう長いのに一気に読んでくださった方が多かったのは本当にうれしいことでした。

書いてよかった、と思いました。いまも思っています。

なのに「間違えたね。私」(吉村萬壱『臣女』)が浮かびました。

応募したことなのか。

 

◆『臣女』の奈緒美は、そんなメモを記しながらも誰にも見せないまま、最期まで生きようと闘いぬきます。(この小説の壮絶な終幕には涙を禁じ得ませんが、それはまた別の機会に書きたいと思います。)

奈緒美のような超弩級激烈人生は望みませんが、私も果てるまで波に立ち向かいたいと思います。

そして、奈緒美の「間違えたね」が引いてくる糸ならぬことばが「あんたのママはたまに間違う」です。

映画『彼らが本気で編むときは』(荻上直子監督・脚本)のなかの台詞です。

母親が娘を置いて家を空けたため、トランスジェンダーのリンコと叔父マキオが暮らす家へ同居しているトモ11歳が同級生の男子カイにかけたことば。

カイは好きな男の子への恋文を母親にみつかって大量の薬を飲み入院、そこをトモが見舞ったときです。母親に男の子を好きになるのは罪深いことだと言われたと打ちひしがれるカイにトモが言うのです。

「あんたのママはたまに間違う。」

そんなことはない、そんなことはないからと持っていると幸せになるという硬貨をカイに握らせて。

感心しました。荻上監督はすばらしいですね。

トモに、あんたのママは間違っている!とは言わせないんです。

トモはカイの、自分が正義と思っているママに、それまでもリンコのことで嫌な想いをさせられているのに、です。

11歳のトモが、大人を全的に否定したり断罪しないのです。

「たまに間違う」ということばのやさしさ。おおきさ。ゆるし。

そのことばは、カイのママだけじゃない、トモの母親にも向けられているのだと思います。

まっこと、ことばには力があると思います。

人を傷つけもするし救いもしますね。

 

◆というわけで、元気です。

この数年、ほんとに悪いことばかり続きますが、のちのち笑い話にできるよう、のちのちが私にあるように健康第一でいきたいです。

もろもろ難題はありますが、そう、たまに間違いながら、明日へ。